徒然

すべて真実(≠事実)

帰る場所、学園

 

 

今夜、友人と3人で車に乗って東京を発つ。夜通し東海道を下って明日、私たちが通っていた小学校の入学式に顔を出すのだ。10年前に寝食を共にした友人と、10年前に寝食を共にした場所へ。

 

小学校の入学式に、大学生がわざわざ集まって顔を出す。特殊。
しかも、その小学校はここから県を二つ跨いだ山の中だ。特殊。
車で何時間もかかる、それでも行きたいと思える小学校。特殊。

 


手間暇お金をかけてでも帰りたいと思うのには訳がある。

 

 

かなり特殊な空間だった。
小学3年生から6年生までが在籍できるその学園には、親元をはなれて寮生活をする小学生が何十人かいた。特殊であるがゆえに人数の変動も激しく、全員合わせても18人しかいないこともあれば、40人近くになることもあった。

 

東京とはなにもかもが違っていた。まず、家族がいない。兄弟、姉妹で入園してくる人たちもいたけれど、だいたいの子は一人でやってくる。早寝早起きの、朝から晩まできっちりと定められたスケジュール。小さな駅から20分ほど坂を登った山の中。寝室からは海が見える。校庭の畑には夜中に猪が出るし、寮と学校の間を歩いていると猿に睨まれたりする。日常的に現れる、子供の手のひらふたつ分ほどもある蛾、握りこぶしくらいの蜘蛛、黄色くて大きなガマガエル、たぬきの死体、池の鯉を漁りにくる鷺……。挙げようと思えばいくらでも挙げられる。そのひとつひとつに大して驚きもせず、ある種子供だけが持つ順応能力の高さで「世の中ってこんなもんなのかな」と、その狭くて幸せな世界を受け入れていた。

 

何かを抱えている人ばかりだった。太り過ぎ、痩せすぎ、体力なさすぎ、複雑と言う言葉では片付かないほど複雑な家庭環境や生い立ち、持病。

毎月"保護者会"があって、その日は、普段は電話すらできない家族がわざわざ東京から会いにきてくれた。私の親は毎月欠かさず会いに来て1ヶ月分しっかり甘やかしてくれたけれど、そうではない子もたくさんいた。子供ながらに引け目を感じていたのを覚えている。

 

そういう環境の中にいたから、私の小学生時代には、忘れてしまうにはあまりにも勿体無い、強烈な思い出がたくさんある。小学生の頃のことを覚えている大人なんてあまりいないかもしれないけれど。食堂でご飯を食べている時に食堂の先生とこういう話をして面白かったとか、そういうレベルで覚えていることが、あまりにも沢山。一学期分だけ在籍してすぐにやめていってしまった人たちのことも、24時間ずっと一緒にいたからしっかり記憶に残っている。

 

そんな中、3年生から6年生まで目一杯在籍した、一人の女の子がいた。学年は私の一つ下。彼女が入ってきた時のことはよく覚えている。

 

その時私は4年生で、4年生は全部で6人いた。これはそれなりに多い方で、一つ下の3年生は、たったの2人。3年生といえば8歳だから、まあそんな時期から親元離れて山の中で暮らそうなんて思う人は稀(自分のことは棚に上げておく)だし、当然の結果である。

 

"保護者会"に来てくれた家族と別れる時間、学園の門ではそれぞれ別れを惜しんでいて、毎月しんみりとした雰囲気が漂う。次に会えるのは、ひと月後。友達の目線があるせいか、わんわん泣いたりする子はあまりいなかった。私も、学園での生活に慣れて来た頃で、寂しい気持ちをこらえながらも「またね」と無理なく笑顔を見せられるようになっていた。

 

そんな中、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。4人兄弟の一番末っ子。3人の兄と両親に甘やかされて育った彼女には確かに、全員が平等に扱われるこの学園での生活は少し寂しいものだったかもしれない。人目を憚らずにぼろぼろ泣いている姿に、当時の自分がどんな反応をしたのかは覚えていない。つられて泣きそうになったのか、あるいは「泣き虫だなあ」と笑っただけだったのか。後者だった気がする。だけど、ピンクのハンカチにぎゅっと顔をうずめて、必死に涙を止めようとしている姿は、今でも鮮明に覚えている。

 

正直、そんなにつらいなら東京に帰ればいいのにと思った。別に私たちは、強制されてここにいるわけじゃない。帰りたいと言えば、まあ多少煩瑣な手続きや準備はあるけれど、いつだって東京に戻れるのだ。現に、ホームシックでいられなくなってすぐに戻ってしまう人がかなりたくさんいた。あの泣きっぷりからして、彼女もそのうち帰ってしまうのだろうなと思いながら、よくあることだと、特に関心を寄せることもせずに寮に戻った覚えがある。

 

それが予想に反して、彼女は在籍可能な年数目一杯をそこで過ごした。繋がりの深い学園生とは卒園後も何度か集まっては花火を見に行ったり、はるばる学園まで遊びに行ったりしていたけれど、彼女は会うたびにカッコイイ女性になっていた。別れが辛くて、家族が恋しくてぽろぽろ泣いていた小さな女の子の影は、全くなくて、すこし寂しかったりもした。

 

 

目一杯いたと思ったのに、まだ足りなかったみたいだ。

彼女は今年度から、学園の食堂の先生になる。

 

 

 

食堂の先生は、まじですごい。健康に良い献立を考えて、学園にいる児童、学校の先生、寮の先生の分の食事をつくる。つくる。つくる。ひたすらつくる。どれくらいひたすらかというと、朝ごはんを食べ終わって「ごちそうさまでしたー」と食器を持っていくと、厨房ではもう昼ごはんのハンバーグの仕込みが始まっているくらい。ひき肉の塊を放って、ぺちぺちと音を立てていたのを覚えている。もう作ってるの?そう、たくさんあるからねえ。食堂の先生はみんな気さくでおもしろくて、ご飯を食べる時にしか一緒にいられないけれど大好きだった。

 

しかも、この人たちがつくるご飯はいつもサイコーに美味しいのだ。学校の給食はまずいと言われがちだけれど、学園のごはんは本当に美味しかった。「いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう」が、お世辞にならない。鯵の干物、だし巻きたまご、豚汁、揚げパン、ラーメン、きんぴらごぼう。オーソドックスなメニューがどれも本当に、いつも美味しかった。

 

家族が恋しくてぽろぽろ泣いていて、この子はすぐに東京に戻るんだろうなと思っていたのに、そんな彼女が今年から食堂の先生になる。感無量。はあ、もうほんとうに、それはもう就任の晴れ姿を見にいくしかない。

 

出発の前日に、当時の同級生から連絡がきた。
入学式いくけど、乗ってく?
私とあとひとりが手を挙げて、突然帰ることになった。
去年の夏に帰ったばかりだけど、もう恋しい。

 

学園の先生たちは、何年経っても私たちのことを覚えていて、遊びにいく度にあったかく出迎えてくれる。よく来たね、大きくなったねって。3年間しかいなかった場所に「帰る」なんて表現を使うのは、普通だったらやりすぎかもしれないけれど。あの場所はいつまで経ってもちゃんと、私たちの「帰る場所」でいてくれる。場所も、人も、全然変わらない。変わらないでいてくれることが、どれだけ嬉しいか。

 

今年から、帰る楽しみがひとつ増えた。
当時も今も変わらない大好きな仲間たちと、大好きな場所に向かう。

 

今夜の道中も、きっと最高に楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終出勤日

 

長いことやっていた仕事をひとつやめた。その日は生憎の雨だった。少し遠いこの街まで時間をかけて通勤する、その時間すら苦にならないくらい働いていて楽しかった。終わりというのは往々にして後からその実感が追いつくものだけれど、長く勤めた割に感慨がきちんとあった。通い慣れたこの街も、仕事がなくなったらたぶん来なくなる。いつも目の前を通るラーメン屋さんも、大型書店も、出勤までの時間潰しに使っていたカフェも。桜並木が有名ないつもの通りには、風物詩の赤い提灯が遠くまで揺れていた。帰り道、お世話になっていたパン屋さんでいつもより多くパンを買う。


働き始めてから終わるまでずっとお世話になったのは大好きな、尊敬できる上司だった。採用面接から意気投合した。後日電話にて合否連絡がセオリーなのに、面接の終盤で「いやもう採用するわ」と言いながら必要書類の空欄に「これ、おススメの本。きっと好きだと思う」とボールペンで書き込むような人だった。学問の話を楽しめる人だったし、ミスをすれば、次どうすれば良いか考えなさいと、叱るより的確に育ててくれる人だった。部下のことをとてもよく見ていた。パトレイバーに出てくる後藤隊長みたいに理想の上司だった。


学ぶことが大好きな私達は、世界の面白い部分を見つけてはいつも共有していた。『中動態の世界』っていうヤバイ本が出たとか、シオランの『生誕の災厄』は半端ないとか、映画「レッドオクトーバーを追え!」は痺れるとか、向田邦子の余白の使い方はえげつないとか。パトレイバーだってこの人に教えてもらって、私の最も好きな映画になった。

 

最後の日、出勤すると「プレゼント」と差し出される紙袋。私が欲しかった本が3000円相当。欲しいなんて誰にも言っていない。この人は、「津軽が欲しいと思っているけれどまだ買っていない本」という、その絶妙なラインを見事に当てたのだ。


職場の人たちにはゴディバのクッキーを用意していたが、その上司には別の贈り物を用意していた。「最後の賄賂です」とか言ってヘラヘラ差し出す。私が用意していたものも本だった。こういうところやっぱ被るよね、と可笑しそうに言いながら紙袋から2冊取り出してパラパラ見て「これやばいやつじゃん」と相好を崩していた。最後のページにしのばせた小さな手紙は、ひとまずバレなかった。


こんなに良い上司はいないと本気で思っている。機嫌が悪い時もあるし、たまに手を抜いていることもあったけれど、それぐらいがちょうどいい。人間味があって助かる。だってそれすら無かったら、超えられる気がしないもの。
組織よりも現場。売り上げよりも満足度。それでいてきちんと結果を出すから、よく表彰されていたし、大きな仕事もたくさん任されていた。


連絡先はもちろん知っているけれど、忙しい人だからきっともう会うこともない。それでいい。たまに、この本がやばかったとか、この映画が凄かったとか、そういうことを報告し合う。ざっつおーる。必要十分。本当に、最後の最後。彼は笑って、「また何か面白いことがあったら連絡しますね」と言った。まだ見ていないはずの手紙、その最後に私が書いたのと全く同じ言葉だった。

 

 

 

椿事とその周辺

 

 

 

自作を語るということは、作品の可能性を規定しまうことになるから語らない。最近の文学研究の礎になっているテクスト論の立場に立てば、それが作者としての誠実なあり方なはず。作品を愛しているのならばなおさら、沈黙を守るべきだ。

 

まあでも、それは文学の話。私のこれは、文学と呼べるようなものには到底及ばない。ということで、話すことにしました。今回の文章だけではなく、文章そのもに対する想いもすこし書いてみようと思います。作品と作者の関係の、ひとつのサンプルとして皆様の参考になれたら。しばしお付き合いください。

 

 

「椿事」と椿について

 

 

広い公園を歩いていた時、自分の握り拳よりも大きく、重たく咲いている牡丹を見て、これが落ちたら音がしそうだなと考えたところから始まりました。朽ちた椿の花びらが落ちているのを見て、地面に何か花が咲いていると勘違いした、その経験も手伝って。

 

仕事中にその映像が急に蘇って、慌てて裏紙に様々書きつけました。一番最初に思い浮かんだのは、nちゃんが椿の落ちる音を聞くシーン。最後の一文から決まって、後ろから設定を詰めていきました。

 

 

「綺麗な日本語」に凝っていたから、最初から最後まで抜かりなく、美しく描きたかった。

明治のあの独特の空気感、仄暗い日本家屋、読むだけでそれらが自然と浮かぶ文章が書きたくて色々と試しました。

 

 

そして、椿を見て、様々想いを巡らせたのは私だけではなかったようで。

椿を含む牡丹の花々が落ちる様子を見て、古来より人々はそこに詩的な何かを見出していたようです。

 

牡丹の朽ちかたは独特ですね。多くの花は、花びらがはらはらと一枚ずつ落ち、咲いていた時の形はあっというまに崩れるものを、牡丹は花がまるごとぽとっと落ちます。地面に散った花を咲いている花と勘違いしたのはこの朽ちかたのせい。まるごと、首ごと、落ちる。

 

お見舞いに持って行ってはいけない花としても有名ですね。気になった方は、椿が落ちることに人々がどのような意味を見出してきたのか、調べてみてください。Google先生がすぐに教えてくれるはずです。最後に椿を落としたのには少し、意味を込めました。

 

 

椿のイメージが急激に湧いたもう一つの原因は、夏目漱石でした。

 

公園で椿をみかけたその翌日に、奇しくも彼の『こころ』を読み、その中にも椿を見つけました。そういえばあの作品にも椿が出ていたはず、と『それから』を開くと、そこにも椿が。椿に導かれているのでは?と思うほど奇妙なタイミングの重なり方でした。

 

 

漱石は椿が好きだったのかしら。『こころ』では、先生の家の庭に椿が植えられているし、『それから』では枕元に一輪挿していた椿が落ちる。開始5行で、いきなり椿が落ちる。好き嫌いは別として、重要なモチーフとして椿を使っていたことは確かで、そのせいで私の中で、明治と椿は一対のイメージとして結びついています。

 

 

そんなこんなで椿をモチーフに書いたのですが、書き終えた時に「椿事」なんて言葉があったことを思い出したのですぐさまタイトルにしました。別タイトルでアップする予定だったんですけれど。だって、「椿事」だなんて、まさに、まさにすぎる。日本語の巧妙な罠に弄ばれているような心持ちになりました。

 

 

なにかに引っ張られるようにして突き進むと、たまにこういうことがあります。見えない何かに導かれる感覚、というと急に怪しいけれど。

 

公園で見かけた椿。たまたま読み返した漱石。椿事という日本語。

 

何が何に繋がるか、本当にわからない。不思議な出来事の連鎖があって、この文章を書くことができました。椿を軸にここまで綺麗にまとまった。ひとまず、すごく満足しています。

 

 

 

 

明治について

 

3年ほど前、口癖は「100年前に生まれたかった」でした。それくらい、激しく憧れていた時代です。

 

たった100年巻き戻すだけで、生活も、思考回路も、何もかもが全く違う。あの雰囲気を、文章からにじませるのが今回やってみたかったことでした。美しく、比喩をふんだんに使って、韻文と散文の間に位置付けられるような文章が書きたかった。

 

明治の空気は伝わったでしょうか。

まだまだ、練習を重ねていくつもりです。

 

 

 

 

死と恋

 

そうして、書いているうちにどうしてもこの和歌がでてきてしまう。

 

君がため惜しからざりし命さへ

長くもがなと思ひけるかな

 

もう死んでもいいと思っていたこの命だったのに、あなたに出会って、もっと長く生きたいと思ってしまったのです

 

義孝のこの歌はすごいですね。

次から次へと背景が浮かんでいきます。

1000年経っても人間というものはさほど変わらないのだと、一番感じさせられる和歌です。今回もその力をお借りしました。大好きです。 

 

 

 

 

最後に

 

文章という不完全な容器に守ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ

村上春樹 ノルウェイの森

 

 

表現したいものがあるのに、うまく表現できない歯がゆさ。いつか描いてやる、と思うから、たくさん冒険をします。短編ひとつひとつに、成し遂げたかった目標があります。今回は、文体に時代の雰囲気を託すことでした。まだまだやりたいことはたくさんあります。涎の出るほど美味しそうな文章を書いてみたい。脚の美しさをひたすら耽美に描写してみたい。書簡形式の文章を、三人称小説を、視点の移動を、書いてみたい。

 

描きたい二人を、というよりも、やってみたい文体への挑戦です。

だから、私の独りよがりな文体練習の積み重ねを好きだと言って読んでくれる人のいることが、本当にありがたいのです。

 

 

社交辞令で言っているんじゃないのよ。

伝わっているかなあ

 

 

読んでくれて、ありがとう。

これからも、どうぞよろしくね。