徒然

すべて真実(≠事実)

椿事とその周辺

 

 

 

自作を語るということは、作品の可能性を規定しまうことになるから語らない。最近の文学研究の礎になっているテクスト論の立場に立てば、それが作者としての誠実なあり方なはず。作品を愛しているのならばなおさら、沈黙を守るべきだ。

 

まあでも、それは文学の話。私のこれは、文学と呼べるようなものには到底及ばない。ということで、話すことにしました。今回の文章だけではなく、文章そのもに対する想いもすこし書いてみようと思います。作品と作者の関係の、ひとつのサンプルとして皆様の参考になれたら。しばしお付き合いください。

 

 

「椿事」と椿について

 

 

広い公園を歩いていた時、自分の握り拳よりも大きく、重たく咲いている牡丹を見て、これが落ちたら音がしそうだなと考えたところから始まりました。朽ちた椿の花びらが落ちているのを見て、地面に何か花が咲いていると勘違いした、その経験も手伝って。

 

仕事中にその映像が急に蘇って、慌てて裏紙に様々書きつけました。一番最初に思い浮かんだのは、nちゃんが椿の落ちる音を聞くシーン。最後の一文から決まって、後ろから設定を詰めていきました。

 

 

「綺麗な日本語」に凝っていたから、最初から最後まで抜かりなく、美しく描きたかった。

明治のあの独特の空気感、仄暗い日本家屋、読むだけでそれらが自然と浮かぶ文章が書きたくて色々と試しました。

 

 

そして、椿を見て、様々想いを巡らせたのは私だけではなかったようで。

椿を含む牡丹の花々が落ちる様子を見て、古来より人々はそこに詩的な何かを見出していたようです。

 

牡丹の朽ちかたは独特ですね。多くの花は、花びらがはらはらと一枚ずつ落ち、咲いていた時の形はあっというまに崩れるものを、牡丹は花がまるごとぽとっと落ちます。地面に散った花を咲いている花と勘違いしたのはこの朽ちかたのせい。まるごと、首ごと、落ちる。

 

お見舞いに持って行ってはいけない花としても有名ですね。気になった方は、椿が落ちることに人々がどのような意味を見出してきたのか、調べてみてください。Google先生がすぐに教えてくれるはずです。最後に椿を落としたのには少し、意味を込めました。

 

 

椿のイメージが急激に湧いたもう一つの原因は、夏目漱石でした。

 

公園で椿をみかけたその翌日に、奇しくも彼の『こころ』を読み、その中にも椿を見つけました。そういえばあの作品にも椿が出ていたはず、と『それから』を開くと、そこにも椿が。椿に導かれているのでは?と思うほど奇妙なタイミングの重なり方でした。

 

 

漱石は椿が好きだったのかしら。『こころ』では、先生の家の庭に椿が植えられているし、『それから』では枕元に一輪挿していた椿が落ちる。開始5行で、いきなり椿が落ちる。好き嫌いは別として、重要なモチーフとして椿を使っていたことは確かで、そのせいで私の中で、明治と椿は一対のイメージとして結びついています。

 

 

そんなこんなで椿をモチーフに書いたのですが、書き終えた時に「椿事」なんて言葉があったことを思い出したのですぐさまタイトルにしました。別タイトルでアップする予定だったんですけれど。だって、「椿事」だなんて、まさに、まさにすぎる。日本語の巧妙な罠に弄ばれているような心持ちになりました。

 

 

なにかに引っ張られるようにして突き進むと、たまにこういうことがあります。見えない何かに導かれる感覚、というと急に怪しいけれど。

 

公園で見かけた椿。たまたま読み返した漱石。椿事という日本語。

 

何が何に繋がるか、本当にわからない。不思議な出来事の連鎖があって、この文章を書くことができました。椿を軸にここまで綺麗にまとまった。ひとまず、すごく満足しています。

 

 

 

 

明治について

 

3年ほど前、口癖は「100年前に生まれたかった」でした。それくらい、激しく憧れていた時代です。

 

たった100年巻き戻すだけで、生活も、思考回路も、何もかもが全く違う。あの雰囲気を、文章からにじませるのが今回やってみたかったことでした。美しく、比喩をふんだんに使って、韻文と散文の間に位置付けられるような文章が書きたかった。

 

明治の空気は伝わったでしょうか。

まだまだ、練習を重ねていくつもりです。

 

 

 

 

死と恋

 

そうして、書いているうちにどうしてもこの和歌がでてきてしまう。

 

君がため惜しからざりし命さへ

長くもがなと思ひけるかな

 

もう死んでもいいと思っていたこの命だったのに、あなたに出会って、もっと長く生きたいと思ってしまったのです

 

義孝のこの歌はすごいですね。

次から次へと背景が浮かんでいきます。

1000年経っても人間というものはさほど変わらないのだと、一番感じさせられる和歌です。今回もその力をお借りしました。大好きです。 

 

 

 

 

最後に

 

文章という不完全な容器に守ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ

村上春樹 ノルウェイの森

 

 

表現したいものがあるのに、うまく表現できない歯がゆさ。いつか描いてやる、と思うから、たくさん冒険をします。短編ひとつひとつに、成し遂げたかった目標があります。今回は、文体に時代の雰囲気を託すことでした。まだまだやりたいことはたくさんあります。涎の出るほど美味しそうな文章を書いてみたい。脚の美しさをひたすら耽美に描写してみたい。書簡形式の文章を、三人称小説を、視点の移動を、書いてみたい。

 

描きたい二人を、というよりも、やってみたい文体への挑戦です。

だから、私の独りよがりな文体練習の積み重ねを好きだと言って読んでくれる人のいることが、本当にありがたいのです。

 

 

社交辞令で言っているんじゃないのよ。

伝わっているかなあ

 

 

読んでくれて、ありがとう。

これからも、どうぞよろしくね。