徒然

すべて真実(≠事実)

最終出勤日

 

長いことやっていた仕事をひとつやめた。その日は生憎の雨だった。少し遠いこの街まで時間をかけて通勤する、その時間すら苦にならないくらい働いていて楽しかった。終わりというのは往々にして後からその実感が追いつくものだけれど、長く勤めた割に感慨がきちんとあった。通い慣れたこの街も、仕事がなくなったらたぶん来なくなる。いつも目の前を通るラーメン屋さんも、大型書店も、出勤までの時間潰しに使っていたカフェも。桜並木が有名ないつもの通りには、風物詩の赤い提灯が遠くまで揺れていた。帰り道、お世話になっていたパン屋さんでいつもより多くパンを買う。


働き始めてから終わるまでずっとお世話になったのは大好きな、尊敬できる上司だった。採用面接から意気投合した。後日電話にて合否連絡がセオリーなのに、面接の終盤で「いやもう採用するわ」と言いながら必要書類の空欄に「これ、おススメの本。きっと好きだと思う」とボールペンで書き込むような人だった。学問の話を楽しめる人だったし、ミスをすれば、次どうすれば良いか考えなさいと、叱るより的確に育ててくれる人だった。部下のことをとてもよく見ていた。パトレイバーに出てくる後藤隊長みたいに理想の上司だった。


学ぶことが大好きな私達は、世界の面白い部分を見つけてはいつも共有していた。『中動態の世界』っていうヤバイ本が出たとか、シオランの『生誕の災厄』は半端ないとか、映画「レッドオクトーバーを追え!」は痺れるとか、向田邦子の余白の使い方はえげつないとか。パトレイバーだってこの人に教えてもらって、私の最も好きな映画になった。

 

最後の日、出勤すると「プレゼント」と差し出される紙袋。私が欲しかった本が3000円相当。欲しいなんて誰にも言っていない。この人は、「津軽が欲しいと思っているけれどまだ買っていない本」という、その絶妙なラインを見事に当てたのだ。


職場の人たちにはゴディバのクッキーを用意していたが、その上司には別の贈り物を用意していた。「最後の賄賂です」とか言ってヘラヘラ差し出す。私が用意していたものも本だった。こういうところやっぱ被るよね、と可笑しそうに言いながら紙袋から2冊取り出してパラパラ見て「これやばいやつじゃん」と相好を崩していた。最後のページにしのばせた小さな手紙は、ひとまずバレなかった。


こんなに良い上司はいないと本気で思っている。機嫌が悪い時もあるし、たまに手を抜いていることもあったけれど、それぐらいがちょうどいい。人間味があって助かる。だってそれすら無かったら、超えられる気がしないもの。
組織よりも現場。売り上げよりも満足度。それでいてきちんと結果を出すから、よく表彰されていたし、大きな仕事もたくさん任されていた。


連絡先はもちろん知っているけれど、忙しい人だからきっともう会うこともない。それでいい。たまに、この本がやばかったとか、この映画が凄かったとか、そういうことを報告し合う。ざっつおーる。必要十分。本当に、最後の最後。彼は笑って、「また何か面白いことがあったら連絡しますね」と言った。まだ見ていないはずの手紙、その最後に私が書いたのと全く同じ言葉だった。