徒然

すべて真実(≠事実)

今日も、核心に触れない話

 

中央線快速高尾行。8:58東京発。たしかそんな電車に乗っていた。スマホで昨日見逃したドラマを見る。相変わらず光の使い方が美しい映像だった。どこで切り取ってもきっと、お気に入りの一枚になる。演出上のワザがあちらこちらに見られて、映像資料としても何回も見たいな、と思う。

ふと顔を上げた時、窓の外の景色が網膜に流れ込んできて、像を結んだ。あれ、と思った。こんなに綺麗だったっけ。何が、と問われても難しい。光が綺麗だと思った。建物と線路の遠近が、その画一的な街並みが、いつもよりも整頓されている感じがした。ただ人工的で無機質なもの特有の冷たさはなく、単調なのになぜか好感が持てた。水道橋を過ぎて、飯田橋より手前の高速道路の下。あれは一体なんだったのだろう。

 

 

直前まで見ていた映像が綺麗だったから、現実がそれに引っ張られただけかなと思った。へえ、映像作品とはこんな力まで持ち合わせているんですか。納得しきれないながらも、そんなことを考えて感心した。そして羨ましいと少し思った。

 

 

その日の午後、教室の窓から見えた景色を見て、今朝の景色はドラマの効果ではなかったことを知る。なんだか泣きたくなるくらい、それは綺麗だった。美しかった。

 

 

普段と何が違うのだろう。見えるものは、もの自体はなにも変わっていないように見える。隣の校舎。奥に並び立つオフィスビル。ホテル。校舎の上に見えるごつい配管。工事の作業員が屋上をうろついていたけれど、それが私の視覚に影響を与えるとも思えない。景色の大部分を占めるのは青空。視線がなぞる先のものは本当にいつもの景色だ。日差しが少し強いくらいで、いつもの景色。

 

 

天気のせいか、日差しのせいか。それとも。私の目が弱ったか。頭が弱ったか。ホワイトボードの前に立っている教授の話を聞かなければいけないのに、外の景色を切り取った窓が気になって気になって気になって、何度も不自然に横を向いた。何が変わった。なぜこんなにきれいなのか。何がこんなに美しいと思わせるのだ。

 

それから数時間後。帰り道の交差点手前の景色、電車から見える景色。日も暮れかかっているのにそれらは相も変わらず美しく、絶望にも似た気持ちになった。結局私はこの景色が見える理由を、知らず知らず昼間特有のいつもより強い日差しのせいにして納得してしまっていたらしい。それなのに。暮れていくのに美しいとは何事だ。落ち着かない。電車の窓の外が怖くて見れない。見たい。少し見る。やっぱりきれいで、どうしたら良いのか分からなくなる。どうして。どうして。恐怖を覚えている自分に気がつく。やはり自分も、その他大勢と同じでなければ不安になってしまうようだった。外を見たくなくて、意味もなく駅の構内に潜っては立ち止まる。どっぷり沈んだ後も街がきれいだったらどうしようかと、不安で不安でたまらなかった。

 

 

 

毎日毎日、書きたいことは溜まっていく。うとうとしたときに瞼の裏に映った映像、駅ですれ違った人、高校時代の美術教師からの連絡、期せずして耳にしてしまった誹謗中傷、友達の家で開かれる宅飲み定例会、年に数回ある、青いフィルターがかけられた日の世界、ショーやライブを見ている時にいつも思うこと、死んでしまったあの人のこと。そんなに書いてどうするの?3年半前、大量の文字が印刷されたコピー用紙が部屋に散乱する様を見て、諦めのような、満足のような感情が湧いた時から、その少し前から、私は何も変わっていなかった。核心に触れない文章を書いて、何も成長などしていないのに、それを隠すように、ひけらかすように、毎回毎回同じことを違う角度からべったりべったり書いてきた。この文章だって、当時書いていたものとなにも変わらない。むしろ退化している。書きたいことはいつも違うように見えて、本当は全部同じだった。私が今まで無駄にしてきた言の葉の数々は、結局次の一言に集約される。